ぐらぐら霊園

くそがば日誌

愚痴

何度か記事を作成し、消すことを繰り返しており、いまだにちゃんと残っているのがシャニマス始めたときの日記のみという体たらく。

 

でも今回のもいずれ消しそう。

感情的な駄文、かつ一方的な主観のぶんしょうなので、

なにも期待しないでというかもう読まないでいいです。

 

 

 

 

 

 

 

私は子供のころ、将来の夢というのがけっこう二転三転いたしまして、幼少期には消防士や父と同じ自動車の会社、あと潜水艇パイロットとかもありましたね。

でも最終的に心から目指したいと思ったのは漫画家でした。

 

物心ついたときから、それこそ幼稚園の頃からずっとお絵かきばかりしていた人間だった私は、当然のようにそれに関連する仕事をしたいと思うようになりました。

小学校の1/2成人式でも、漫画家になりたい夢を語った記憶があります。嫌われ者でしたので、周りからは嘲笑されていましたが。

 

小学生のころ、(私の主観では)妹ばかり可愛がられていた中で、そして出来が悪く不登校気味になったりもした中で、唯一といっていい「親に褒められた技能」でもあったことが、かえって私を夢に向けて盲目にし、そのまま中高生へとなりました。

 

そう、盲目だったのです。私には見えていませんでした。小さいころに褒められていたことから、私は両親がずっと応援してくれているものだと思い込んでいたのです。

両親が――とりわけ、絶対的な発言権を持つ父が――そういった職業を目指すことに反対していたことを知るのは、高校の進路を決める頃になってからでした。

 

(本当のところは高校受験のころから美術系を選ばせてもらえず雲行きが怪しかったのですが、なにぶん頭の悪い私はそこまで気が回っていませんでした)

 

「ふざけるな」

今でもしっかりと覚えています。心の底から理解不能という声音で、父からはっきり告げられたことを。

 

この頃、私はイラストの専門学校に行きたいと願っていました。楽しい、心から楽しいお絵かきをより実践的に、より効率的に学び、いつか名のある絵師になって様々な作品を残したい。

むしろ、創作に携われない人生など考えられませんでした。毎日好きでもない仕事をして、人生の大半を忍耐と疲労に費やすなど、当時の私にとっては死と同義だったといえましょう。

 

最初の進路相談、私は上記の通りに親に伝えました。返答も上記の通りです。

極めて一方的な言い方をするのであれば、「裏切られた」というのが最も近いでしょう。

ずっと応援してくれていると思っていた、理解してくれていると思っていた事柄が、実は嫌悪の対象ですらあったのです。

何もかも見失いました。何せ、それ以外の道を考えてこなかったのです。

 

高校時代、声優を目指していた友人が何人かおります。ひとりは夢をかなえ、もう一人も役者という形で新たな夢に向けて奮闘しています。

中学時代に軽音楽を趣味にしていた友人たちは、みなバンドのドラマーやベーシストとなっていました。

 

彼らは当時から夢に向けて邁進し、努力する機会をつかんでいました。

それがどれだけ羨ましかったか。

彼らは夢をかなえ、いうなれば栄誉を手にしていました。

それがどれだけ妬ましかったか。

どれだけ劣等感に苛まれたか。

 

でも、親には反抗することはできませんでした。

「本当にやりたいなら親を説き伏せればいい」と思われるかもしれません。

でも少なくとも、私には無理でした。何事にも自信が持てなかった子供が、どうして親に歯向かうことができましょう。

何度も何度も枕を涙で濡らし、しかしそれしかできないままに、私は底辺スレスレ大学の文学部に入学することとなります。

ちなみに、美大も同様に蹴られました。まあ、こちらは入ろうとして入れるものでもありませんでしたが……目指すことすら許してはもらえませんでした。

 

 

大学に入学した直後、私はイラスト教室に通おうとひそかに画策しました。

いくらだったかな、60万円くらいのところで、一日だけ体験授業をさせてもらったり、夢を目指すにはどういう段取りを整えるべきかを真剣に教えて貰ったりしました。

学業とバイトとの両立は大変でしょうが、好きなことのためです。やれると信じていました。

 

まあ、そもそもやらせてもらえるわけがありませんでしたね。

私が申し込み直前までいってから相談したこともあって驚いていたのでしょう、以前ほどのガチギレではなく、どちらかと諭すように止められたのを覚えています。

結局、ここでも私は折れました。私には両親へ歯向かうような勇気はなく、結局そうやって妥協と諦めを続けていくのだろうと、さすがの私もこのあたりから察し始めています。

気が付けば絵も描けなくなり、代わりに文章で創作活動を続けるようになりました。

 

結局、私が在学中に学んだのは図書館司書と学芸員でした。

素晴らしい、今の仕事(家電量販店員)に欠片も役立っていませんね。

今後の人生でも役立つことはあるのでしょうか。たぶんないんじゃないかな。

 

さて、ここでひとつの出来事が起こります。

そろそろ就活を見据えろ、という時期。説明会だらけの日程に否が応でも「毎日好きでもない仕事をして、人生の大半を忍耐と疲労に費やす」人生が迫ってきます。

それでもゲーム会社や出版関係に入りたいな、と思っていたときでした。

 

妹が美術系の大学に入ったのです。

 

ショックでした。

私のときには、あれほど苛烈に駄目だと言われ、否定されていた夢の道を、妹は歩むことが許されたのです。

もちろん、妹は妹で様々なやり取りをしたことでしょう。とはいえ、彼女も私と同じく親に逆らえるタイプの人間ではありません。

親が、許したのです。

 

心から不満でした。当然です。

何年か越しに叩きつけられた「裏切られた」感に、そうとう心が荒みました。

どうして自分はダメで、妹は良いのか。

何がいけなかったのか。

何を間違えたのか。

このあたりを直接話したことはありません。態度に出ていたのかは覚えていませんが、きっと両親はそんなことを考えていたとも知らないでしょう。

 

思えば、昔からそうだったのです。

私が幼少のころ、川遊びにシュノーケルが欲しいといったとき、駄目だと言われました。

後年、妹がまったく同じことを言ったら、買ってもらっていました。

私が中学生のころ、ケータイが欲しいといったとき、駄目だと言われました。

おかげで中学の卒業旅行で夢の国に行った際、グループからひとりはぐれてしまい、連絡も取れないので合流できずにほとんどのアトラクションに乗れませんでした。

後年、妹が中学生になったら親から買い与えました。そりゃあ、女の子だからという理由はわからなくはありません。でも、不満なのは間違いありません。

私が高校生のころ、ペンタブを欲しがっていましたが買ってもらえませんでした。紙で十分だろうということです。バイトもさせてもらえず、お小遣いで買うなど不可能です。

妹が欲しがると、我が家にも導入されました。当然、デジタルイラストのデビューが早い妹はぐんぐんと上達しました。

 

いつも、妹の願いは聞き届けられました。

一時期、本気で悩んだことがあります。両親は出来の悪い私に失望して、妹にぜんぶ注ぎ込もうとしているのではないか、と。

辛かった。

 

結局、就活も失敗に失敗、書類選考の段階で落ちまくり、唯一受かった家電量販店に勤めることになります。

就活中に「イラスト関係の出身者のみ」の募集要項を何度も、何度も歯噛みしながら見たことを覚えています。専門学校に通っていれば、もしかしたら受けるチャンスはあったかもしれない。でも、その時の私には受験資格すらなかったのです。

ついでに、あまりにも落ち続けるものですから、メンタルも失調します。何度、部屋で喚き散らしていたことか。今も勉強机には、八つ当たりした刃物の傷跡がしっかり残っています。

 

さて、就職してからの私は、ご存じの方も多いことでしょう。

完全に鬱になります。

出来の悪い私は、膨大な種類の業務を覚えるのにやたら時間がかかります。

あげくにマルチタスクもできず、柔軟性もないため、ミスの嵐。

厳しい上長の下だったこともあり、完全に精神が崩壊しました。

のちにADHD発達障害だと診断されました。つまるところ、最初から出来損ないだったわけです。お笑い種じゃあないですか。

 

クッキー2枚をかろうじて飲み込む食生活で、体重は8キロ痩せました。

通勤電車では勝手に涙があふれだし、その時に聴いていた好きだった曲(ガルパン最終章のOP)は、いまでも流れると動悸が激しくなる呪いの歌へと進化しました。

しないだろうと思っていた喫煙をはじめ、風呂場で泣き喚きながらウォッカのビンをあおる。冬場に泥酔して社員寮の廊下で座り込んでいた時は、たぶんそのままスッと死にたかったんでしょう。

酒に溺れた翌朝、風呂場にネクタイが首つり用の輪っかになってかかっていた時は、思わず笑ってしまいました。

 

創作活動は完全に停止しました。

就職前は、「働きながら創作を続けて、三年以内にデビューしよう」とひそかに目標を掲げていた私は、創作のその字すら行えなくなりました。

鬱の原因の一端は、間違いなくここですね。

 

学生時代に出した小説を越える文章を書くこともできず、それどころかあれだけ毎日のように浮かんできた物語が、世界観が、設定が、なにひとつ浮かばなくなり、いよいよ自分の存在価値を見いだせなくなりました。

物語を生み出せない人生に、意味を見いだせなかったのです。

 

それでも耐え抜き、いや耐えてしまい、気が付けば四年です。所属が変わったおかげか少しだけ調子を取り戻し、この頃はやっと少しだけ文章を書けるようにもなってきました。

絵はめっきり止まってしまいましたが、文章を趣味で細々と続け、あわよくば……と思っていた、ちょうど先週のことです。

 

妹の絵画が作品展に展示されました。それを嬉しそうに、両親が私に伝えたのです。

 

どうして?

 

妹は、いわばニートです。定職にはついておらず、平時は何をしているのかわかりません。

ちょうど大学の卒業時期がコロナ禍だったこともあり、就職できなかったことそれ自体は仕方がなかろうと思います。

が、今回こういうことになったので、今はたぶん美術の道を進んでいるのでしょう。

 

どうして?

 

両親は私に「観に行ってあげてくれ」と言いました。

うれしそうでした。

妹が美術で結果を残したことが、うれしそうでした。

 

わたしの柔道の級が上がった時、父は行きに先生たちと合流できなかったことを怒るだけで、よろこんではくれませんでした。

 

妹が結果を出すのは、よろこんでくれています。

 

わたしが夢をあきらめたしごとでぼろぼろになっていても、家に帰るとき笑っていれば、きがついてもくれなかったのに。

 

いもうとがしごともしないで書いた絵をよろこんでいます。

 

どうして?

 

なにがちがうのだろう

なにをまちがったのだろう

なんでだめなんだろう

 

私は夢を諦めさせられて、その結果メンタルが崩壊してゴミまみれの部屋で泣きながら酒を飲んでいます

妹は実家で、のんびりとやりたいことをやっています

 

なのになんで、妹は応援されているんですか?

なんで、妹は褒められるんですか?

なんで、私も妹の絵を観に行かなきゃダメなんですか?

 

 

 

でも、行きました。

家族仲は悪くないのです。こうしてこんなところで書き散らし、ずっと恨み言をいう事もデキず、取り繕ってでも壊すまいとするくらいには、仲はいいのです。

たまに両親が中悪いですが。

妹とも、仲は悪くないです。昔は会うたび喧嘩していましたが、今はそんなこともありません。

何なら、私も応援しています。結果を出せるといいとは思っています。

だからいきました。

 

妹の絵は、立派な都心の美術館の企画展にありました。仰々しい名前の協賛が並び、いろんな国の人の絵もありました。

趣は違えど、私が立ちたかった場所に、妹は立っていました。

みんなに祝福されて。

 

絵を引き裂いてやりたくなりました。

 

お前さえいなければ、私がその道を進めていたかもしれない。

どうしておまえばっかり。

おまえもわたしとおなじくらい苦しめばいいのに

おまえの夢だってくじけてしまえばいいのに

 

でももちろんやりません。

倫理的にはもちろんですが、彼女の努力の結果に、今までの人生を妥協と諦めで灰色に彩ってきた私が、今更手を出すことなど許されません。

 

だから、その絵だけを見て、他のどの展示も見ないで帰りました。

 

親には、ただ観に行ったことだけ伝えました。

喜んでくれることでしょう。ちゃんと顔を出したのです。

まさかその絵を引き裂きたいと思ったり、

その絵のために鬱が再発したり、いやそれだけではないですけど、

でもそんな状態になっているとは思わず、

兄が妹の作品を観に行ってくれてよかったと、喜んでいることでしょう。

 

 

それだけの話なのです。

夢を追いたがりながら追おうともしなかった屑の、当然の物語。

ただそれだけなのです。

 

 

笑えますね。

 

しにたい。