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夢を諦めて普通の会社に入った。
といっても、誰もがうらやむ一流企業などではない。
あえてめちゃくちゃに嫌な言い方をすれば、
大卒だろうが高卒だろうが、初任給以外はほとんど何も変わらないようなところだ。
わざわざ四年間もお金を払って大学で時間をつぶした人間が入って、
何か誇れる場所ではない。
入社してからは地獄のような日々だった。
覚えきれない職務に連日のように詰られる。
聞けば怒られ、聞かずば怒られ、YESと言い怒られ、NOと言い怒られた。
下より喪失していた自尊心などは粉みじんになった。
自分が悪い、自分の出来が悪いせいだ。
みんないい人ばかりなのに(これは事実である)、自分がいるから負担になっている。
毎日毎日、毎日毎日毎日毎日、自分を責めて、生きていることを悔い、存在価値のなさに嘆いた。
職場ではすぐに泣くようになった。
感情がコントロールできなくなった。少しのミスでも、何なら褒められても涙が出てきた。
「泣いたら優しくしてもらえると思っている」と言われたことがある。
むろん、泣いた。そんな高尚な計算ができるような自分ではないし、できる状態でもなかった。
上長からすれば、さぞ扱いづらかったことだろう。
なにを頼んでも満足にこなせず、こなせなかった結果泣くだけの男。
上長こそノイローゼになりかねない。
私が配属されたフロアは貧乏くじというほかなかった。
当然、仕事の評価も低い。
賞与などろくな金額を望むべくもなく、給与に至っては一度降格処分となり下がった。
役職のない平社員から平社員への降格だ。笑い話である。
それに文句など言いようもない。
なにせ、低い評価も降格処分もむべなるかな、真っ当な扱いだったのだから。
気が付けば後輩がふたりほど昇進し、すっかり置いてけぼりとなった。
休日は何もできなかった。
就職する前は、自炊だの、創作活動だの、狩猟免許だのと色々な夢を抱いていたものだが、
どれも行えず、行わず、あげく片づけひとつ満足にできないまま、
ゴミに埋もれて泣きながら酒を飲んでいた。
何かにすがりたくて、免罪符が欲しくて精神病院に行った。
ADHDと診断された。いや、厳密には、診断されきっていない。
薬を処方されつつ、数か月の観察が必要だそうだった。通院は続かなかった。
要するに、自分は生まれながらの欠陥品だった。
思い当たる節などいくらでもあった。
小学生、実に空気の読めない私は、クラスで浮きまくっていた。
当然、仲間外れだ。嘲笑、愚弄、いじめとはならないまでも、つらい日々だった。
学校に行きたくなくなり、保健室に登校する日々が続いた。
母は怒った。引きずってでも学校に連れて行った。
つらい、つらい日々だった。
宿題、課題、まともにこなせたためしがなかった。
父は怒った。当たり前だ。
この頃から、どちらも何をしても褒めてはくれなくなった。
それも仕方がない。褒める要素がないのだ。
今にして思えばADHDに当てはまる部分しかないのだが、
結局、私は「普通に」出来損ないとしてしか見られなかった。
などと書いているのも、結局言い訳と自己弁護、責任逃れでしかない。
事実、出来損ないなのだ。
出来損ないはどれだけ真面目だろうと、出来損ない以上にはなれないのだ。
けれども、両親は私が出来損ないだと知らない。
私が少しマトモになったと装ったら、それで安心してくれる。
だから、マトモじゃない漫画家なんて、作家なんて認めなかった。
「普通に」就職し、「普通に」家庭を持ち、「普通に」成功を収めることが、
きっと両親の描いた理想の息子の姿だったのだろう。
今の姿はこれだ。満足か?
これが両親の望んだ「普通の」生活なのだろうか。
だとしたら、ずいぶんなことだ。
これが望まれた生活だというなら。
このまま一生、ゴミに埋もれて生きていくのだろうか。
「自分が変わろうとしないから」と言われる。わかっているそんなことは。
変われるならとっくの昔に変わっている。
変わるべきときはもう過ぎた。
こういったことを面と向かって言えないで生きてきた。
いまもそうだ。だからこんなところに書き捨てている。
両親に罪を着せて、自分は悪くない、自分のせいじゃない、
自分は被害者だとうそぶく。
何も努力などしてこなかった分際で。
休日になると、体が動かなくなる。
よほどのことでなければ、外になど出ない。
生活必需品の買い足しすら、まともにできない。
欠陥品にもほどがある。我ながら逆側には才能豊かだ。
一日が終わる。
二度と得られない時間が、無為に過ぎていく。
このまま、何物にもなれぬまま
きっと死ぬまでみじめにゴミに埋もれているのだろう。
さっさと死んでしまえばいいのに。